ヴィパッサナー瞑想:冷蔵庫の前で立つ瞑想

冷蔵庫の扉の前に立ちながら鼻歌交じりに
その中身を物色する。

料理を作る人はその日の献立の為に。
料理を食べる人は何を食べようかと物色の為に。
完全に後者であるわたしはその日
鼻歌とは程遠い力強い自信の歌声で
「豆」のテーマソングをリズミカルに歌いながら
右手は開いていく扉を押え
豆ではなく別の物を探しておりました。
うぐいす豆はまだ封が切られておらず右上に横たわっていたのを確認しています。

母「そんなに豆が食べたいなら開けて食べなさい。」
豆のテーマソングを耳にした母が遠くで言いました。
私「豆じゃない!別の物を探してるの!」
母「あらそ。」

▼母
豆のテーマソングを聞いた。
開けていない豆が冷蔵庫にあると記憶が蘇った。
豆が食べたいのかな?
開けてない豆があるから食べていいと許可した。

▼私
豆を見た。
豆のテーマソングが思い浮かんだ。
テーマソングが思い浮かび歌ったが実際
豆ではない別の何かを探していた。

人は豆をテーマにその場に同時に居合わせていながら
全く別のことを思って存在しているのです。
しかも母も私もどちらの考えにも間違いがない。
豆のテーマソングを歌っているのだから豆が食べたいんだな。
と思った母と
豆のテーマソングを歌いながらも全く心は別を求めていた私。
どちらも良い。
どちらも正しい。
だから
そう思っているに違いない。
とか
私の方が正しい。
とか
そういうことは自らの感情の領域であって白黒はっきりさせる
なんていう行為は骨折り損なのだと思ったのです。

最近、
人の認識はレイヤーのようにかなり多種多様にそして
同時に近い早さで行われていることに気が付き始めました。
歩く瞑想と座る瞑想で私は音の認識が自分で確認できるだけでも
何個もできているという事を気づき始めています。

ヴィパッサナー瞑想ははじめ、その起こった事実だけを
認識してその音や出来事にラベルをつけるラベリングという
作業を行います。その間に個人的な感情、例えば
怒りとか嫉妬とかそういう事にもラベリングします。

つづく。

先日、地橋秀雄先生の瞑想入門でヴィパッサナー瞑想の基本を教えてもらいました。
実際に実践することができるのも先生の詳細で明確な教え方のお陰です。
ありがたいです。