インドの話 2
★なぜインドに行ったのか?
★またか!
★それはやはりアシュタンガヨガ総本山
Shri K Pattabi Jois Ashtanntga Yoga Institute
で練習してみたかったという思いが一番だった。
★前述のとおり、
先生一人に対し3・400人近くの生徒が
入れ替わり立ち代りマイソールを訪れては去っていく。
という流れの中に私も身を任せていた。
★じゃあ、そんな大勢の中のたった一人なのだから
全然、先生に見てもらえないね。
先生に見てもらえないのに行く意味があるのか?
★わざわざインドにいってヨガを学んでくる意味があるのか?
★なんとも素朴な疑問です。
★それを説明するには
まず、アシュタンガヨガの練習の性質を知る必要がある。
そもそもアシュタンガヨガは自主錬と言う概念から
成り立っている。
決まったヨガのポーズを止まること無く
流れるように行っていく。
プライマーシリーズというものから
はじまり、セカンドシリーズ、サードシリーズと続く。
★どのシリーズも2時間ぐらいで終わる・・・んだと思う。
セカンド、サードなどはあまりにも先の遠い話で
よくわからいというのが正直なところだ。
★私はプライマーシリーズそしてセカンドのほんの導入部分
まで練習が差し掛かっているが、セカンドの練習は私にとっては
あまりにも過酷で、全然やりたくない・・・
というのがこれまた正直なところだ。
★アシュタンガヨガと言うのは面白いヨガだと思う。
自分でやりたいと思って始めたヨガなのに、
もう、全然練習やりたくないよ・・・と言う
心境に茶飯に陥る。
その度に、練習から逃げ、数日または
大抵1カ月ぐらいが限度でまた練習に戻りたくなる。
こんなことを続けているものだから365歩のマーチだ。
★でもじゃあ、そもそもなぜ先に進む必要があるのか?
ということなのだか、そのへんのさじ加減がやはり
偉大なる先生のもとでアシュタンガヨガをやりなさい
という教えの所以なのだろうなと思ったりする。
★自分じゃわからないことがある。
先日会った、美女子が
洗濯機に自らダイブして
またぐるぐるに振り回されて正確な判断できなくなる
状況下には脚をいれないと言っていた。
深く頷くいた。
★アシュタンガヨガの練習の
行ったり来たりはそれに似ている。
★初期の頃の練習は
打ち破り、破壊の繰り返しだとも思う。
・自分で作り出している恐怖心
や
・自分で作り出している許容範囲・固定概念
のようなものは結構あっさりぶっ壊される。
★見た目で難しそうなヨガのポーズをやることで
できなさそう
とか
ぜったいできない
とか
そういう概念的なものが
いとも簡単に破壊されていく。
★〜られる
というよりは
ぶっ壊す・打ち破る。
★こっちだよと呼ばれて恐る恐る行ってやってみるという
自立型体験・経験の導き。
★始めはどうでもいい固定概念や恐怖心
で凝り固まっているものだから、はっきり言って
このぶっ壊しの作業は覚醒とか目覚めに近い。
あまりにも楽しすぎてハマる。
★これにハマったひとがアシュタンガヨガに突き進む。
★ハマった時が
洗濯機へダイブ・イン!の時でもある。
★今度は、
ドンドンできる!
もっとやってやる!
という風に若干盲目的になりながらも突き進みたい気持になる。
★世間ではそれを
エゴ
とか
マインド
とか呼んだりする。
★私たちは
どれだけ、自分自身のマインドに振り回されて
いるのだろうか?
★そもそもマインドに振り回されているなんて
思ってみたこともない。
自分のマインド
と
自分の本心
の違いなど考えたことがあるのだろうか?
★そもそも
そんな確認作業をする暇などあるのだろうか?
★そもそも
そんな時間をもつ重要性を感じるのだろうか?
★実はアシュタンガヨガはそういうモノを身体を
動かす作業に集中することにより
自らに問いかけるダイブ・イン・アウト作業
の繰り返しなのだ。
★ダイブ・インの時はモクモクと
自分の内面的ぶっ壊し作業に集中するので
100人乗っても
200人乗っても
いや400人乗ってもダイジョウブなのだ。
乗るのではなく、居るのだ。
何人いてもダイジョウブ。
★要はそんな大勢の中で練習しようが
一人で練習しようが関係ない境地になるのが
本当は理想なんだと思う。
★ですので。
ヨガの練習は先生に見てもらう為ではない。
と私は思うのです。
★そしてその大勢の中での練習であるにもかかわらず
たまに先生の目が向く時がある。
そして、
ダイブ・インし過ぎている人。
要はやり過ぎている人。に先生、
アウト!という。
そして
ダイブ・アウト(そんな風に言うのか知らないが)
要は恐怖心や概念で可能性を限定している人。
アウト時間が長くて、要はさぼってんじゃね?と言う人に先生、
イン!という。
これがその
どの先生と共にイン・アウトをするか、
そして
その先生のさじ加減がどれ程重要か
ということなのだ。
先生の導きは自分の目覚めにとても影響する。
誰と練習を共にするかはとても大切なことなのです。
★偉大な先生というのは
どこにいてもどこかに見られている感覚があり
それが信頼として浸透していくのが感じられる人
だと思う。
そうは言ってもたまには
先生に見て欲しいと思ったりするでしょ?
はい。、そういうアテンションは必要ですよね。
でも先生はそういう私をも見通しているわけですよ。
先生との信頼関係というものも
1日や2日で築けるものではないというところも。
ヨガを末永く続ける意味合いに繋がっていくわけです。
★ですので。
たとえ、大勢だったしても。
たとえ、名前どころか顔すら
知られていなくっても・・・。
その先生を体験しに行く必要は大いにあるのです。
インドに行く理由はそこにある。
自分の目でみて、体験するためにそこに行く。
★ですから。
ヨガなんかは特に。
自分の好きな先生と空間でやる。
★それは、
とても大切なことですから。
★本心に問いかける時間を持てる。
★そんな作業ができる場所を持つってことも大切ですから。
★みなさんも
インドに行ってみてください。
じゃなくて
neyogaに来てください♡
★
★それはやはりアシュタンガヨガ総本山
Shri K Pattabi Jois Ashtanntga Yoga Institute
で練習してみたかったという思いが一番だった。
★前述のとおり、
先生一人に対し3・400人近くの生徒が
入れ替わり立ち代りマイソールを訪れては去っていく。
という流れの中に私も身を任せていた。
★じゃあ、そんな大勢の中のたった一人なのだから
全然、先生に見てもらえないね。
先生に見てもらえないのに行く意味があるのか?
★わざわざインドにいってヨガを学んでくる意味があるのか?
★なんとも素朴な疑問です。
★それを説明するには
まず、アシュタンガヨガの練習の性質を知る必要がある。
そもそもアシュタンガヨガは自主錬と言う概念から
成り立っている。
決まったヨガのポーズを止まること無く
流れるように行っていく。
プライマーシリーズというものから
はじまり、セカンドシリーズ、サードシリーズと続く。
★どのシリーズも2時間ぐらいで終わる・・・んだと思う。
セカンド、サードなどはあまりにも先の遠い話で
よくわからいというのが正直なところだ。
★私はプライマーシリーズそしてセカンドのほんの導入部分
まで練習が差し掛かっているが、セカンドの練習は私にとっては
あまりにも過酷で、全然やりたくない・・・
というのがこれまた正直なところだ。
★アシュタンガヨガと言うのは面白いヨガだと思う。
自分でやりたいと思って始めたヨガなのに、
もう、全然練習やりたくないよ・・・と言う
心境に茶飯に陥る。
その度に、練習から逃げ、数日または
大抵1カ月ぐらいが限度でまた練習に戻りたくなる。
こんなことを続けているものだから365歩のマーチだ。
★でもじゃあ、そもそもなぜ先に進む必要があるのか?
ということなのだか、そのへんのさじ加減がやはり
偉大なる先生のもとでアシュタンガヨガをやりなさい
という教えの所以なのだろうなと思ったりする。
★自分じゃわからないことがある。
先日会った、美女子が
洗濯機に自らダイブして
またぐるぐるに振り回されて正確な判断できなくなる
状況下には脚をいれないと言っていた。
深く頷くいた。
★アシュタンガヨガの練習の
行ったり来たりはそれに似ている。
★初期の頃の練習は
打ち破り、破壊の繰り返しだとも思う。
・自分で作り出している恐怖心
や
・自分で作り出している許容範囲・固定概念
のようなものは結構あっさりぶっ壊される。
★見た目で難しそうなヨガのポーズをやることで
できなさそう
とか
ぜったいできない
とか
そういう概念的なものが
いとも簡単に破壊されていく。
★〜られる
というよりは
ぶっ壊す・打ち破る。
★こっちだよと呼ばれて恐る恐る行ってやってみるという
自立型体験・経験の導き。
★始めはどうでもいい固定概念や恐怖心
で凝り固まっているものだから、はっきり言って
このぶっ壊しの作業は覚醒とか目覚めに近い。
あまりにも楽しすぎてハマる。
★これにハマったひとがアシュタンガヨガに突き進む。
★ハマった時が
洗濯機へダイブ・イン!の時でもある。
★今度は、
ドンドンできる!
もっとやってやる!
という風に若干盲目的になりながらも突き進みたい気持になる。
★世間ではそれを
エゴ
とか
マインド
とか呼んだりする。
★私たちは
どれだけ、自分自身のマインドに振り回されて
いるのだろうか?
★そもそもマインドに振り回されているなんて
思ってみたこともない。
自分のマインド
と
自分の本心
の違いなど考えたことがあるのだろうか?
★そもそも
そんな確認作業をする暇などあるのだろうか?
★そもそも
そんな時間をもつ重要性を感じるのだろうか?
★実はアシュタンガヨガはそういうモノを身体を
動かす作業に集中することにより
自らに問いかけるダイブ・イン・アウト作業
の繰り返しなのだ。
★ダイブ・インの時はモクモクと
自分の内面的ぶっ壊し作業に集中するので
100人乗っても
200人乗っても
いや400人乗ってもダイジョウブなのだ。
乗るのではなく、居るのだ。
何人いてもダイジョウブ。
★要はそんな大勢の中で練習しようが
一人で練習しようが関係ない境地になるのが
本当は理想なんだと思う。
★ですので。
ヨガの練習は先生に見てもらう為ではない。
と私は思うのです。
★そしてその大勢の中での練習であるにもかかわらず
たまに先生の目が向く時がある。
そして、
ダイブ・インし過ぎている人。
要はやり過ぎている人。に先生、
アウト!という。
そして
ダイブ・アウト(そんな風に言うのか知らないが)
要は恐怖心や概念で可能性を限定している人。
アウト時間が長くて、要はさぼってんじゃね?と言う人に先生、
イン!という。
これがその
どの先生と共にイン・アウトをするか、
そして
その先生のさじ加減がどれ程重要か
ということなのだ。
先生の導きは自分の目覚めにとても影響する。
誰と練習を共にするかはとても大切なことなのです。
★偉大な先生というのは
どこにいてもどこかに見られている感覚があり
それが信頼として浸透していくのが感じられる人
だと思う。
そうは言ってもたまには
先生に見て欲しいと思ったりするでしょ?
はい。、そういうアテンションは必要ですよね。
でも先生はそういう私をも見通しているわけですよ。
先生との信頼関係というものも
1日や2日で築けるものではないというところも。
ヨガを末永く続ける意味合いに繋がっていくわけです。
★ですので。
たとえ、大勢だったしても。
たとえ、名前どころか顔すら
知られていなくっても・・・。
その先生を体験しに行く必要は大いにあるのです。
インドに行く理由はそこにある。
自分の目でみて、体験するためにそこに行く。
★ですから。
ヨガなんかは特に。
自分の好きな先生と空間でやる。
★それは、
とても大切なことですから。
★本心に問いかける時間を持てる。
★そんな作業ができる場所を持つってことも大切ですから。
★みなさんも
じゃなくて
neyogaに来てください♡