アシュタンガヨガ:ヤーマ(禁戒)①アヒムサー(非暴力)

ヤーマ
  1. アヒムサー(非暴力)
  2. サティヤ(正直)→嘘をつかない
  3. アスティーヤ(不盗)
  4. ブラフマチャリヤ(禁欲)
  5. アパリグラハ(不貪)

してはいけないこと。
アシュタンガヨガの枝の初めに来る「ヤーマ
道徳的なことの教えを初めの2本の枝で説いています。
そしてその2本の枝はさらに5本に枝分かれし、
ヤーマは上の5つに分かれております。

こちらの投稿につきましては
アシュタンガヨガ:8つの枝
にてお伝えしたとおり“完全にわたくし個人単独の思いの羅列”です。
さまざまな方の考えと違っていることはもちろん
私の捉え方が間違えている場合もございます。
それを踏まえて読んでいただけると幸いです。

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アシュタンガヨガの先生たちはヤーマの1本目の枝を
とても重要に考えているようで、
例えば朝の練習でけがをしているにも拘わらず無理をして
体を痛めつけるような練習をしている生徒へ先生たちは
一番の枝“アヒムサー”の考えを伝えたりします。

アヒムサー”は他人への暴力はもちろん自分への暴力
そして言葉の暴力・思いの暴力と全ての暴力に対して当てはまります。
もちろん、動物へのそれもあたります。だからヨギ―は菜食であったりします。

私はすでにこの時点で落ちこぼれというか・・・。
私は菜食ではないのでいつもこの最初の枝にてジレンマに陥ります。
未だにこれといった腑に落ちる答えのないまま動物性たんぱく質を
食生活から追放はしておりません。
だからと言って積極的に焼肉やステーキを食べたくなったりはしませんので
それがなくても全くストレスなく生活は可能です。

私ひとりで生きているのならば若しくは同じ思考の持ち主やコミュニティー
に完全に属しながら生きていれば菜食を貫き通せるかもしれません。
ただ、一緒に暮らす家族や考え方の違う人と生活を共にする場にいる以上
心を込めて作ってくれた食事などに対して
私は菜食なのでいりません・・・。
とは未だに言い切れないのです。
弱さと言えばそうなるとも思いますし、選択の問題でもあると思うのです。
私は誰が何と言おうと自分の信念を貫き通す方法に“菜食”を選んでいないのです。

この世に生きている間に考え方の同じ人々ばかりと時を過ごせるかといったら
そうでもなく、お互いにバランスを取り合いながら生きているんじゃないかなと
アヒムサー”から主旨が逸れてはいないだろうか?と思わせる考えが浮かんだりします。

電車で偶然にとなり合わせになるひとや
目の前に座っている人がどんな生活をしてどんな交友関係があり
どんな思考の持ち主なのかなど詳細に知らずとも私たちの1日は過ぎていき
しかも案外バランスが良く取れている。

してはいけないこと。

どれくらいの人が意識をして生きているのか?
小さな過ちを薄っすらと積み重ねてしまう瞬間などその都度あります。

しかしそんな自分との折り合いとかバランスを取りながら
自分の一生を全うしていくのだとそんな風に思って
この“アヒムサー”への思いを締めくくりたいと思います。

アヒムサー
この枝は余計なことは一切言えないような一番目の枝にふさわしい
潔さを必要とする枝なのだと思うのです。


足早な9月なお茶の水