アシュタンガヨガ:ヤーマ(禁戒)③アスティーヤ(不盗)

ヤーマ
  1. アヒムサー(非暴力)
  2. サティヤ(正直)→嘘をつかない
  3. アスティーヤ(不盗)
  4. ブラフマチャリヤ(禁欲)
  5. アパリグラハ(不貪)

してはいけないこと。
アシュタンガヨガの枝の初めに来る「ヤーマ
道徳的なことの教えを初めの2本の枝で説いています。
そしてその2本の枝はさらに5本に枝分かれし、
ヤーマは上の5つに分かれております。

こちらの投稿につきましては
アシュタンガヨガ:8つの枝
にてお伝えしたとおり“完全にわたくし個人単独の思いの羅列”です。
さまざまな方の考えと違っていることはもちろん
私の捉え方が間違えている場合もございます。
それを踏まえて読んでいただけると幸いです。

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アスティーヤ”について思う事は沢山あるのです。
「盗み」というコトバはなんとも邪で不穏な音でもありますね。

物を盗むと物が手元にありありと残ったりしてとてもわかりやすいものです。
小さい頃の記憶が蘇って参りました。
子どものころ悪知恵のはたらくお姉さんにそそのかされて小さなコンビニで
ファンシー消しゴムをスカートのウエストにはさんで出できたことがありました。
そのうちアイスクリームもお腹にはさむとばれないとかなんとかで何度か
そんなことをやったのです。
しかし長続きはしませんでした。
その後、そのファンシー消しゴムやアイスクリームはどうしたんだろう・・・
と記憶をたどりましたが全然思い出せません。
もみ消したのでしょう・・・記憶を。

お店にあるものは勝手に持ってくるものではない。

という知識は私のようないけない体験をせずとも小さいうちに
理解されるものです。
そして私のように持ってきた時には言いようのないイヤーな感情に支配され
親にばれたらどうしようといてもたってもいられなくなる。
当時ソワソワしていた3歳の私に同情したくなります。

盗みは同時に正直さをも犯しますから
2番目の枝“サティヤ(嘘をつかない)”も自動的に破ってしまうという。
小さな私はすでにヨギ―失格。

しかしそのいてもたってもいたれなくなる状態が大事なのではと思うのです。

その度合いは人によって様々でしょう。
育った環境や一緒にいる人によって違うのも事実です。
私をそそのかしたお姉さんはたぶん当時5歳ぐらいでしょう。
既にその時点で彼女はそんな悪知恵を思いついていたことも非常に興味深いです。

では大人の私はどうだろうと思うのです。
大人は何かと物事を複雑そうに扱いますが実際のところ
現実は3歳の私の時と全ては一緒でしょう。
小さい頃の体験により物を盗むことはしなくなりますし
盗んだとしても手元から抹消したりする悪知恵を得ていたりして
そんなことで巷のワイドナショーのネタが増えたりします。

しかしその後に残る目に見えないザワザワとした居心地の悪さに変わりはありません。

いてもたってもいたれなくなる状態。

3歳でも何歳でも変わらなずにひょっこりと顔を出してくるもの。
罪悪感
この“罪悪感”はとても強力だと私は感じています。
次の枝“ブラフマチャリヤ(禁欲)”にも繋がっていくと考えています。

意識をせずに盗みが完了する場合もあります。
目に見えない知識だったり人のセンスだったりそういうものは
どうなるのでしょう?
弟子は師の技を盗んで成長する。
そんな言葉もありますが師は弟子を育てると公言しているわけですから
盗まれることが前提の関係性なのだと考えます。

が、そう言う場合でなく単純にあの人の何々が良かったから真似した。
どんどんと盗めるその素晴らしい自分の立ち位置の状況に陥る時人には
欲が出てきてしまう。

真似とは盗みなのか?

そんなことに思いをグルグルとさせることがありました。
そして私なりに考えた答えは、
真似をしたとしても静々とその真似した人物や物に対して敬意を払い
それ以上は頂きませんと欲を制している人物に対しては

盗まれた。

とその人や物は思わないのではないかとそんな一見都合のよさそうな答えを
自分なりに導いております。

私は実際のところ、ヨガの教えを頂いた先生達の真似をしまくっています。
そしてその真似した教えを別の場所にいる人々に伝えています。
私にはその伝えるべき人々がいてくれるお陰で知識を独り占めせずに
その真似は決して自分自身の為だけのものではなくみんなのものに
なりますように。そういう思いで今なお盗みまくっております。

教えるのが面白い。

ヨガ先生と話しているとよく耳にすることがありますが、
自分が面白いからやっているのか?
それとも自分以外の誰かの為に知識を増やし伝え
ヨガを教えるそいう言う事で喜んでくれる人が増えるのが面白いのか?
とふと思う場面に遭遇したりします。
そんな場面の繰り返しの中で一つ私が決めたことがあります。

私は自分自身の為に全力を注ぐ場所はマイソールでの練習の1時間半と
決めています。そこではだれの目も気にせずにそこは貪欲に非常に
自分勝手に・・・兎に角練習に励みます。

それ以外に得られる先生からの知識や技術は別の場所で
私と一緒に練習してくれている生徒さん達に必ず還元できるよう
にクラスに赴きますしクラスがなければできるだけ
その場所や時間を作ろうと考えています。
それが知識を与えてくれ、盗ませてくれた先生方への敬意だと思うからです。

盗むその先に誰がいるのか。

その先に自分がいるのなら今一度“アスティーヤ”を思い出すべきなんだと
思うのです。


知識をくれた先生や友人達に沢山の感謝をいつも。